市民創作 函館野外劇について
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五稜郭公園
特別史跡 五稜郭
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NPO法人市民創作
「函館野外劇」の会
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TEL: 0138-56-8601
市民創作函館野外劇 「星の城、明日に輝け」
NPO法人 市民創作「函館野外劇」の会
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歴史の登場人物

1-アイヌとコロポックル
大地の神コロポックルとアイヌの時代。

コロポックル
アイヌ 小人、神 アイヌの伝説に出てくる小人、またはカムイ(神)。 蕗の葉の下や縦穴に住み、トイチセウンクル(土の家の人)、トイセコッチャカムイ(土の家の傍らの神)、トンチなどとも呼ばれています。
アイヌが北海道に住む以前に漁狩猟で暮らしていた小人族とされ、 身長は1寸から4尺までと言い伝えられています。性格は優しくおとなしく、村人の人気者であったそうです。(伝説)



2-高田屋嘉兵衛の時代
蝦夷地の表玄関として大いに箱館が発展した時代。

高田屋嘉兵衛
明和六年(1769年)淡路津名郡都志(つし)本村(五色町)に生まれ、寛政2年 (1790年)兵庫津(神戸市兵庫区)に出て船乗りとなりました。
寛政7年(1795年)出羽国で1500石積の辰悦丸(しんえつまる)を建造して船持船頭となり、 翌年、始めて箱館港に来ました。寛政10年(1798年)には、弟金兵衛を支配人として箱館に『高田屋』の名で店を開き、北前船による交易を始めました。 また、寛政12年(1800年)には、エトロフ島に渡り、17ヶ所の漁場を開き、翌年、航行の難所なクナシリ島とエトロフ間の航路を確立しました。

享和元年(1801年)に蝦夷地御用定雇船頭(えぞちじょうやといせんどう)、文化3年(1806年) には蝦夷地産物売捌方を命じられて、幕府の蝦夷地経営に深くかかわるようになり、厳密な品質管理をおこない、その信用で瞬く間に豪商となりました。
港の開発や造船業、農業、商業、工業においても箱館の発展に大きく貢献しました。

続 豊治
高田屋嘉兵衛の造船所に勤めた後、1854年(安政元)日米和親条約締結直後にペリー提督が来函した際、黒船の洋式船構造を調べ、マストを2本以上使う洋式帆船のスネ―クル方式を採用し「箱館丸」を1856年に完成させた船大工でした。 この他に豊治は15隻もの西洋型船舶をつくりわが国初の洋船製造者として知られています。
国内初の洋式帆船「箱館丸」は、昭和63年に青函博覧会に復元出展され、現在も函館の西埠頭に姿を残しています。



3-ペリーと黒船の来航、箱館開港
箱館港が交易港となり、海外文化が入り始めた時代。

ペリー提督
嘉永6(1853)年6月3日、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官提督ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し通商などを求め国書を提出し、安政元(1854)年1月、再び軍艦8隻をもって浦賀来航し、続いて神奈川沖に入泊し、前年提出の国書に対する回答を求めました。
ペリー提督は「日本沿岸において遭難した合衆国船舶の乗組員の生命財産を保護すること」「合衆国の船舶に薪水食料の補給ならびに修理のため数港を開くこと」「合衆国船舶との交易のため数港を開くこと」を要求しました。これに対して幕府は、下田と箱館の開港を決定しました。これにより、「下田」を日米和親条約締結と同時に開港、箱館は安政2年(1855年)3月からの開港となりました。



4-五稜郭の建設と完成と学問の機会均等
国内初の西洋式築城術での要塞建設が始まり、機会均等の教育方針の下、諸術調所で西洋の学問が伝習された時代。

武田斐三郎
安政3年(1856)箱館奉行所は、「諸術調所」を創設しました。
「諸術調所」は、オランダ文典、航海術、物理、化学、砲術など西欧の幅広い分野における学問を伝習する場として、蘭学者・武田斐三郎を教授に迎え、日本近代国家を築き上げた数多くの逸材を輩出しました。
斐三郎は「幕末のレオナルド・ダビンチ」と称され、その才能は我が国最初の洋式城郭「五稜郭」の立案・設計などにも遺憾なく発揮されました。



6-箱館戦争
榎本武揚、土方歳三、ブリューネらが函館に「蝦夷共和国」を造ろうとする時代。

榎本武揚
榎本は幕府直参旗本、(1836)江戸の下谷生まれで、後に幕府海軍伝習所を経て文久3年にオランダに留学し、海軍関係の諸術や法律を学んで5年後の日本動乱期に帰国、幕府海軍副総裁となりました。

明治元年(1868)、江戸湾を去り、艦隊と旧幕残党を率いて箱館五稜郭に入りました。 彼ら、旧幕幕府脱走軍陸海軍士官以上による入札で役職を決定し、榎本暫定政権が誕生しました。
その後徳川家臣を救済するため蝦夷地開拓を嘆願しましたが拒絶され、新政府軍との箱館戦争が始まることとなりました。
しかし戦いに敗れ、旧幕府脱走軍は降伏しましたが、榎本武揚は後に北海道開拓使出仕、ロシア公使、海軍、逓信、文部、農商務などの各大臣を歴任し、明治41年(1908)、73歳で没しました。

土方歳三
土方は、武州多摩の農家に1835年生まれ、薬の行商で生活を営むと同時に、天然理心流で剣の技を習得し、後に近藤勇等と共に新選組を結成しました。

その後、会津藩の配下の新選組副長となり、中心人物として才能を発揮し、恐れられる存在となりました。 しかし、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大政奉還後は近藤と別れ、大鳥圭介率いる陸軍部隊と合流して、東北各地を転戦し会津落城後は仙台から榎本艦隊に乗り組み蝦夷地へと渡りました。
歳三は一隊を率い川汲峠(旧道)の箱館府兵を一蹴して五稜郭へ入り、さらに松前城を陥落させ、向かう所敵無しでした。
榎本政権では陸軍奉行並に選ばれ、翌明治2年には官艦宮古湾に集結の報に接すると、敵艦奪取作戦にも参加しましたが失敗に終わりました。
新政府軍上陸後は激しい銃撃戦で新政府軍の進撃を食い止めましたが、占領された箱館奪回のため市街地に向けて突撃、一本木関門(若松町)で銃撃を受けて生涯を閉じました。 享年35歳。

ジュール・ブリュネ(Jules Brunet)
フランス軍砲兵少尉 砲兵少佐 官房長官 1838年ベルフォールに生まれ、1857年に陸軍士官学校、砲兵学校を経て少尉に任官されました。 1862年からメキシコ戦役で24歳という若さで第5等レジョン・ド・ヌール勲章を授与され、徳川幕府の要請により日本に派遣され1867年1月、横浜に到着、砲兵科教官として日本で名を知らしめました。
その後、榎本艦隊に身を投じ箱館戦争にも参加し、旧幕府脱走軍が降伏する寸前にフランス軍艦コエトロゴン号に乗船。 横浜でデュプレックス号に移りマルセイユに帰還し、本国でも数々の戦いに参戦しました。



7-函館大火と啄木
幾度の大火に見舞われた函館は、港祭りを期に徐々に活気を取り戻す一方、石川啄木らの歌人達の活躍も。

石川啄木
明治40年5月、函館に到り青柳町に住み、雑誌『紅苜蓿(べにまごやし)』の編集を勤めていました。
その後、弥生尋常小学校代用教員となり、新居を定め妻節子、 長女京子と共に生活を始め、「函館毎日新聞」の遊軍記者をも務めました。
しかし、40年8月25日の大火に遭遇し、啄木が勤務する学校、新聞社とも焼け退職、その後9月に、やむなく函館を去ることになりました。函館での生活は132日でしたが、函館を舞台にした啄木の数々の詩は、その後次々と世に認められ、現在函館の大森浜に記念像が建てられ、啄木一族の墓が立待岬にあります。
 
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